テンション・ノート(仮)


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俳句〜作者について知らないままに作品を鑑賞する

2018年9月27日

 「表現」と呼ばれる、おおよそほとんどの「作品」には「作者の名前」が添えられます。私の身近にいる美術系の作家はもちろん、音楽をやっている人や映画を撮る人や本を書く人の「作品」にも、現代に限らず歴史を遡ってみても、おしなべて。美術系の作家の展示を観に行くと、「名前」だけでなく過去にどんな学校で学び誰に師事してどのギャラリーでどういう展示をしてきてどういう受賞歴があるかまで、事細かに小さい文字で書かれた「プロフィール」が掲げられています。新聞の狭い欄に掲載される俳句や短歌にさえ、「作者の名前」と「大まかな住所」が添えられていて、そこから大まかに性別と年齢と暮らしぶりがうかがえるようになっています。
 一方、1年半ほど前に俳句を始めて昨年の暮れから参加している句会では、「作者」が伏せられた状態で「作品」を鑑賞し意見を交換し講評が行われた後で初めて「作者」が誰であるのかが発表されるのです。
 「作品」にとって、それを鑑賞する人に「作者」やその人の「プロフィール」を知られて観られることが、「幸せ」なのか「不幸」なのか?もちろん「作者」を伏せて「作品」を発表することは、無責任な面もあるのかもしれないけれど。
 余談ですが、葉書部というグループに入れていただいて俳句を詠んでいます。ご興味がございましたら「どれがmyagishitaの俳句なのか?」を想像しながら鑑賞してみてください。